太郎の冒険

私、太郎が日々考えている事などを連ねていこうと思っております。

何故「恋愛」と書くのか

 「恋がしたい」とは云うのに、「愛がしたい」とは云わない。この辺りに秘密があるのではないかと思うのです。

 その秘密を探る為にはまず「恋」「愛」とはどのようなものなのかを知る必要があると考えます。

 恋と愛の違いはどのように考えますか? 恋の方が軽く、愛の方が重い? 或いは恋は脳内麻薬による勘違いであり、愛は正常な精神により発するもの? などでしょうか? 私は以前、そのように思っていたものですから、「頑張って愛していこう」「これからは愛の時代だよ」などと嘯いておりました。……盲目的にただそのように思い込んでしまうなんて浅はかでした。

 そんな浅はかな私は当然の如く痛い目にあり、墜落––––そう、墜落してしまったのです。幸いな事にそれほど高みには行っていなかった為、痛みは大したものではありませんでしたが、肉体的ダメージに変換すれば両足首を同時に挫いたような痛みでした。

 もしこれがかなり込み入った恋愛であったら、両足骨折––––いや、全身骨折まで達して、生きていく事が出来ないのではないか。と私は気が気ではなくなりました。

 では、どうすればよいのか。恋愛という理解し難いものから、逃げる事しか出来ないのだろうか。「我が逃走」が私の人生で良いのだろうか。否、断じて否である。私は恋愛と正面から闘う事を決意したのです。

 「敵を知り己を知れば百戦危うからず」というのは孫子の言葉です。危うからずというのが最大の要点でしょう。私はその要点を胸に恋愛についての調査を始めました。勿論、実施調査です。本当に知りたい事は実施しなければ分からないのではないか。と調査を終えた今は思っています。

 

 では、調査結果です。

 「恋」とは、その相手に対して無意識下に自己保存してしまう事ではないかと考えます。正確には「恋に落ちる」という行為はこの事を指しているのではないでしょうか。

 例えば、家族や友人からは否定的に言われている事を話した時に、それを肯定されるたびに「ああ、この人は本当の私を理解してくれている」と思うのです。これは実際は意識的にやっているのではなく、無意識下で行われているようです。勿論、これは数を重ねれば重ねるほど有効でしょう。これを意識的に行うから「恋をする」というのではないでしょうか。

 (なので、恋をしたい方はこの手を使ってみると良いと思われます。また、恋をしたくない方はこの手に注意すべきでしょう)

 

 次に「愛」ですが、これは恋とは違い意識上で行われるものだといえます。恋が自己保存であるならば、愛は憐れみの情に近しいものがあると考えます。

 目の前で人が倒れていると、「大丈夫ですか」と声をかけたくなる気持ち、それが憐れみの情です(かなり簡潔的ですが)。「こうしたら、喜ぶだろうな」という気持ちの事です。これは自身でコントロール出来るものです。家族や親しい友人にこのような感情を抱く人は多いのではないでしょうか?

 

 以上の事から、何故「恋愛」と書くのか。お分かりになりましたでしょうか?

 恋から始まり、愛に移行するから恋愛というのでしょうね。

 ただ、恋恋の人もいれば、愛愛の人もいると思います。私が書いたのは1つ形に過ぎません。様々な形があっても良いと思います。

 (私は未だに両足首を骨折中の為、皆様のご健闘を心から……so……心から応援しております)